「キャラクターさえ居れば作者は誰でもいいよね」という風潮を後押しして作者を無自覚に殺してきたオタクたちが嫌いという話

放送開始前から原作ゲームがサービス終了となり、「第2のカブトボーグ誕生か!?」と界隈を騒がしていたものの、オタクたちの下馬評を覆し一躍大人気アニメへと躍り出た『けものフレンズ』。
その2期についての衝撃発表に、ネット上がかなり騒然となっておりますね。

僕も作品のファンとして純粋に残念に感じる部分もあるのですが、ふとネット上の反応を見ていて首をかしげたくなる意見が散見されます。

それは、作者が別人になってしまったら同じ作品とは言えないという前提を、当たり前のように皆さんが共有している点です。

「そんなの当たり前じゃないか」と思われるかもしれませんが、よくよく考えてみれば僕たちは、原作者が描いていないキャラクターたちを日常的に目にし、そして受け入れています。

たとえばあなたの好きなゲームがアニメ化したとき、その〝アニメ内に登場するキャラクター〟と、〝ゲームに登場するキャラクター〟が、同じ人物だと感じる理由は一体なんでしょうか。
日頃愛情を持ってゲームで使用し、自分の中でいろんな性格やドラマを作り上げてきたキャラクターが、画面の中でアシカみたいな声でわめきながら走り回る頭の残念なおともだちになっていたとしましょう。
そのキャラクターを、同一人物だと感じられる人たちの感性に、僕はちょっと疑問のようなものをいつも感じていました。

話は横にそれて、僕はガンダムシリーズがまあ半分ぐらい好き、半分ぐらい嫌いで、おおむね見ているんですが、
『新機動戦記ガンダムW』という作品において、監督が途中から高松監督に交代するという驚くべき事態が起きています。
僕がこの話を知ったのは、作品を見終わってからしばらく経ったあとで、正直まったく気づいていませんでした。

確かにちょっと言われてみれば、話の展開が急に変わったかとも思うんですが、そもそも作品が最初から最後まで突拍子のない展開の連続だったので、
なんか「そういう作風だ」と言われてしまったら、別に気にするほどのものでもなかった気がします。

逆に、僕は『機動新世紀ガンダムX』という作品がとても好きで、この作品が好きな理由の一つに、シリーズ構成の高崎ヒロユキ氏の存在があります。
一般的なアニメは脚本が毎回別の人に変わって、ストーリーラインだけは一人の人間が一貫してシリーズ構成として管理しています。
ところがガンダムXの場合、予算の関係か、脚本は最初から最後まで川崎ヒロユキ氏が一人で全話手がけております。
これが結果的に、話に一本筋を通していて、ぶれることのない丁寧なストーリー作りにとても感銘を受けておりました。

今回話題になっている『けものフレンズ』においても、脚本家は別におられるものの、大本のストーリーについてはたつき監督が一貫して行っていたと、
雑誌のインタビューや脚本家さんのTwitterで明らかにされており、作品にとって監督が必要不可欠な存在であったことはよく知られています。

ところが、キャラクター単体に切り分けて作品を見てみるとどうでしょう。
僕たちは普段から、ニコニコ動画のMADで、Twitterに流れてくる短編漫画で、コミケで売られている同人誌で、
作者が携わっていないキャラクターたちを、同じキャラクターだと認識して、愛情を注いでしまってはいないでしょうか。

確かに監督が交代したことによって、作品の性質やクオリティーに若干の変化は起きるでしょうが、
おそらく僕たちオタクはきっと今後放映される2期を目にしたとき、「このキャラクターたちは1期のキャラクターたちとは別人だ」と感じられるだけの感性を持ってはいないと思います。

僕はそもそも一次創作者として、二次創作に対してとても否定的で、それは自分たちを殺す存在であることをよく知っているからです。
誰が書いてもそのキャラクターだと判別できるだけの個性を生み出すことがキャラクターとしての完成であるなら、その創作者が必ずしも書く必要がなくなるという作者の死も同時に生み出しています。
優れた作家というのは常に自分を殺すための武器を生み出し続けていて、だからこそ他人が勝手にそれを使ってはいけないものだと考えています。

正直僕は、TwitterのTLに流れてくる数々の二次創作を、気持ち悪いなと思いながらいつも眺めています。
気持ち悪いと感じるのは、作者の血が流れていない二次創作のキャラクターたちのことを、原作のキャラクターと同じ人間だと、なんとなく感じてしまう、自分自身の感性に対してです。

もちろん『けものフレンズ』に関しても、デザインしたのは吉崎先生ですし、設定についても原作のゲームを作った方達が生み出したものです。
ただ、アニメとして表現され、視聴者を魅了した要素の多くは、たつき監督がストーリーの中で描いてきたキャラクターたちの性格や言動、ドラマにもあったでしょう。

キャラクターのデザインも、しゃべり方も、性格も、特徴も、生い立ちも、全てはクリエイターが身を削って作り出した財産です。
それらを誰もが当然のように躊躇なく利用し、受け入れている現状において、「キャラクターを利用していいのは生み出した当人だけだ」という言葉は、言うには遅すぎると僕には思えます。

作品のこと〝ジャンル〟って呼び方する自称オタク全員死ね

長年オタクなんかやっていますと、ネットの影響とか通信技術の発達とかで、まあ昔とは変わったなーと思うこと多いんですけど
特に近年になってから、Twitterではこういう感じの愚痴を見かけることが日常的になってきたなと思うんですよ。

「最近、○○のジャンルが荒れ過ぎててつらくなってきた・・・」

「○○ジャンルの人たちはイタい人が多くて近寄りたくない」

いやね、こういうの見る度に思うんですよ。
何の話をしてるのお前ら?

アニメにしろ漫画にしろゲームにしろ、作品は作られて提供された時点で作品として存在するじゃないですか。
それを見たファンが、何か言ったりやったりした影響で、作品が変質するなんてことあるんでしょうか。
そりゃまあ、「ファンの感想から作家がフィードバックを受けて方向性を変える」なんてこともあるでしょうが、
それで作品がつまらなくなるのは〝真に受けた作り手側の技術がヘボ〟ってだけなんで、別にファンのせいにする必要ないと思うんですよ。

そもそも〝ジャンル〟って何やねん

話を戻しますが、たぶんオタクを自称する人たちの中でも「〝ジャンル〟って一体なに?」って疑問符つけてる人も多いと思います。
ジャンルってあくまで、たとえば「ガンダムのジャンルはロボットアニメ」とか「仮面ライダーのジャンルは特撮」とか、作品のカテゴライズの意味で使われるのが一般的だったと思います。
ところが同人活動の活性とか、ネットの普及によるファン同士の交流が増えた結果、ジャンルという言葉には別の意味が付加されるようになってきたみたいです。

おそらくは、コミケのような同人イベントに参加する際、「どのジャンルとしてサークル申し込みをするか」という使われ方から発展して、
〝そのジャンルで登録している人たち〟という意味に発展していたんだと思います。「葉鍵ジャンルでサークル出展している人たち」とか。
また、そのジャンルで登録されている同人誌を買うファンたちのことも包括した言葉として、使っている人たちもいるようです。

これがSNSの普及まで時代が進むと、毎日のようにキャラや作品の話がファンの間で交わされるようになり、ファンイラストがタイムライン上を飛び交い、まるで毎日同人イベントがやってるように錯覚するほどです。
この時代において、ジャンルという言葉が「ある作品のファンとして活動している人たち」という、かなり大きな枠の言葉として扱われるようになってきた感じします。
〝同人イベントにそのジャンルで登録している人〟という元の意味がぼやけていき、作品のファンを自称する人たちのコミュニティのことをオタクでは「ジャンル」と呼ぶようになったみたいです。

趣味と人間関係どっちが大事なの

で。本題なんですが。

僕が学生だった時代は、あくまで深夜アニメとかは「限られたごく一部の人たち」が見ている物で、オタクどうしのつながりとは、偶然にも同じ趣味や価値観を持った人、という認識でした。
まず作品に対する価値観が先にあって、人間関係が後でできるような感覚なんですよね。
たとえ相手のことは人間としてそれほど好きではなくても、偶然にも近い価値観を持った者同士だから、理解者として付き合う。宗教性に近い感覚だと思います。

それが今、SNSとか見てると、なんか逆になってるような気がします。
〝ジャンル〟という、何かよく分からない仲良しグループみたいなものが前提として存在して、その人間関係に参加するために作品に向き合ったりしているように見えます。

「去年まで○○ジャンルで活動してた人たちが、新しいジャンルに移ったから、じぶんもそれに併せて作品を見よう」

みたいな、コミュニティに参加するための道具としてしか、作品のこと見てないんじゃないかって思う瞬間がよくあります。
僕は個人的な持論として

なんてことを平気で言うやつなので、ぶっちゃけ「お互い違う作品を好きになったら分かれて別の道に進めばいいじゃん」って思ってます。
それでもし、いつかまた同じ作品を好きになったとき、「ようまた会ったな」と挨拶を交わすぐらいの関係で良いんじゃないでしょうか。

周りと話をあわせるために、一生懸命流行を追いかけて、仲間はずれにならないように話を合わせて。
オタクってそういう人たちを小馬鹿にしたような人たちがなるものだったと思います。
むしろ今のオタクと呼ばれる人たちの方が、一生懸命周りにあわせて同じゲームをやる、笑われる側の人間になってきてんなって思ってます。

作品のことを〝ジャンル〟としてしか見ていない人たちへ

作品にたずさわってるスタッフが何言ったとか、ある作品の二次創作出してるやつがどんな本出したとか。
それ、作品に何か関係あります?
次再生したときいきなり内容が変わったりします?

もし、つまらなくなって感じるんだとしたら、それは最初から

人間関係とか声優とかにしか興味がなかっただけで、作品そのもののことはどうでも良いだけでしょ。

「俺は声優が大好きだから作品のことなんて声優のPV程度にしか思ってない」って言い切る声優ファンとか
「アニメのキャラなんて同人誌で犯されるために存在するとしか思ってない」と言い切れるシコシコ野郎とかは
むしろ自分の道を貫いてるオタクなんで、好感が持てると思います。

でも、本当は作品のことなんかどうでもいいくせに、「○○ジャンルに関わる人たちが大好き!」とかクソ寒い発言する人たち。
価値観があまりに合わないので近づいてほしくないので、とりあえず死んで欲しい。

文字書きとして立命館の研究論文とpixiv小説について思ったこと

こんにちは、幾谷です。
立命館大学が発表した論文」がかなりネット上を騒がせていますね。

news.livedoor.com

SNS上ではなんか、小説なんて一文も書いたことない、著作権もろくに理解してないド素人どもの妄言が1万RTとか拡散されてて「地獄~!!」って感じです。

・商業作家としてデビュー経験があり、現在も個人出版で活動している
・WEBに自分の小説を公開した経験があり、今後も機会があれば再開する予定
・理系大学の出身でデータ解析系の研究で卒業論文を書いた経験があり、アカデミックに対しても理解がある

という僕が、当事者側としてきわめて有用なことをお話するので、耳触りのいいだけの妄言は鼻で笑って、とにかく俺の話を聞け。

何が問題なの?

まず著作権的な話をすれば何も問題ありません

1.著作物の一部を論文へ引用するのは、適切にやってれば、無断だろうが問題無い。
2.解析に用いることも「情報解析のための複製など」というド直球な規程があるので、大丈夫。
3.出典元を書かない方がむしろ問題なので、ハンドルネームを書いてるのは正しい。

なのでむしろ問題があるのは、「自分の作品が不特定多数に向けて公開されていて、著作物として扱われる作品だ」という自覚がなかった、作者たちの方だと思います。
pixivの規程にもちゃんと「作品の著作権はお前らのものだぞ」「問題があったらお前らで解決しろよ」と書いてあるのに、「規程なんか知らない。著作権もわからない」ってワガママ抜かしてる連中がアホなだけです。

仮に僕の作品が何らかの研究論文だとか、批評サイトだとか、個人のブログに引用を受けたとして、それが正しく著作権法に基づいて行われたものであれば、問題にはしませんし、文章を削除するなんて過剰反応もしないでしょう。
「著作を著作として扱われれたくない」という人たちは、結局のところ、最初から著作を公表すべきではなかったよね、としか言いようがありません。

特に今回問題になっているpixiv小説の場合、「マイピクに公開」という不特定多数に公開しないための設定も存在するので、作者側はこの設定によって自衛できたはずです。
(今回の件を受けて、この設定に変更する形で落ち着けた方もいると耳にしています)

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見られたくないなら見られないようにすればいいでしょ。
好きで見られないようにしてるならそれでいいでしょ。

「作品を不特定多数に公表する覚悟のない人間を著作者として扱う必要がそもそもない」というのが僕なりの結論です。

プライバシーの侵害になるの?

また、今回の引用が「プライバシーの侵害だ」という意見もたまに目にします、が、なるわけねーだろ

例えば僕が「この小説の作者の名前って幾谷正っていうんだぜー」と公表されることで、プライバシーを侵害されますでしょうか。

というのも、「作家名」というものが本来、司法上ではしばしば「公人格」として捉えられるからです。会社名とかと一緒です。
僕という私人が、創作活動を業として行うため、公人として名乗る名義が著作者名です。
もともと「公」のために用いられるべき名称が「公表」されることで、何らかの害が及ぶとは考えづらいです。

仮に作者名のところに、公表していない本名が書かれてたとしたら、これはプライバシーの侵害でしょう。でも今回はそうではありません。
また「個人情報保護法違反」についてですが、これは業務上知り得た情報に関する法制度なので、今回の件で持ち出してるのは考えの足りないバカでしょう。

Twitterのアカウントがバレる? じゃあTwitterの名前と作者名を分離すればいいじゃん。
ひもづけられて困る情報を自ら進んでひもづけた人間の自己責任でしょ?

そもそも「BL小説を書いてるなんて知られるのが恥ずかしい!」という主張自体、何か「BL小説だけ特別扱いせねばならない」という偏見に基づいてはいないですか?

二次創作だから配慮すべきか?

いや、なんで法を守ってない人間に配慮しなきゃいけないんですかね

今回の件で一番僕がクソだなと感じているのは、論文という著作物を書いた研究者側も、著作権を守っている側の人間の一人なんです。
法律を守っている側が、法律を守っていない、知らない側のルールに合わせろ、と強要されているようにしか見えないんです。

「私たちは法を侵した活動をしているので、丁重に扱え」なんて傲慢が許されるわけないでしょ。日本は法治国家ですよ?

もちろんモラルという概念が大事なのは分かりますが、俺たちのモラルと彼らのモラルは違います。
自分に都合のいいルールを相手に強要すること自体がモラルの欠如です。

そもそも、法律というルールを守った上で、次にモラルの話をしてください。
ルールを守れていない人間が「ルールより俺たちの決めたモラルを大事に扱え」というのは、あまりに都合が良すぎます。
「私たちの決めたルールに反するから私刑にしよう」という本音が丸見えです。事実、現状が既にそうなっているでしょう。

二次創作という表現は、正直「法の支配が及ばない無法地帯」と成り果てています。
「表現だから無条件に守らなければならない」という主張も理解できますが、自由とはあくまで他者の権利を侵害しないという大前提に基づくものです。
今回の件にしろ、論文作者の表現と学問の自由を著しく害する立場として自由が主張されていますが、はっきり言って「どちらが公的に守るべき自由」であるかは明白です。

著作権違反というリスクを冒して活動してきた人間が、そのリスクを許容すればそれで済む話ではないでしょうか。

有害という表現は適切か?

いや、そういう評価も含めて表現じゃん。

僕も「こいつの作品はクソ」とか「害悪」とかたまに言われますけど、感想にしろ評価にしろ、する分には別に自由でしょ。

どうしてもその指摘が許せず、問題であり、著しく気分を害するものであるなら、作者が訴訟を起こして論文の作者を訴えればいいんです。
で、訴えられてない以上、外野は「許されたものなんだな」と認識するしかないんじゃないでしょうか。

この点については「作品の著作権者が自分の手で作品を守れ」としか言いようがないと思います。BLだとか二次創作だとか関係なく。

「小説を公開してたらクソだって叩かれた! うえーん><」っていう覚悟の足りないザコが、自由な表現の場から逃げ出しただけでしょ。
そんな奴どうせ、今回の件がなくとも遅かれ早かれ降りてますよ。
やめたきゃやめればいいじゃない。
自分の勝手で始めたくせして、やめるときだけ人のせいにすんな。
賞賛だけ欲しけりゃお友達だけに見せてろ。以上。

研究の引用に許可は逐一取るべきか?

僕は、あくまでも僕は、取らなくていいと思います。

機械学習にしろ、ビッグデータにしろ、大量に標本を採集する必要のある研究において、全ての引用物に対して許可を取れなんて言うつもりはありません。
これは文章分野だけに限らず、イラストを使った画像解析にも、音楽を使った音声解析、動画解析、あらゆる研究対象に波及しかねない問題です。
全てに許可が必要だという“一部の人間の主張するルール”が、公共の利益に対して及ぼす害は計り知れないものだと思います。
ただでさえ日本の研究は遅れてるのに、さらにハンデがつくのクソじゃん。

誰にでもアクセス可能な開かれたプラットフォームは、作者にとっても、読者にとっても、また研究者にとっても有用なものであるべきです。

モラルを守れだとか体の良い言葉を並べても、結局これらの主張は

「私たちは法を侵した活動をしており、著作者として振る舞う覚悟が足りず、不特定多数にも見せたいので、世間が法を越えた配慮をして欲しい」

という、聞くに値しない戯言です。
何で法律を守ってないモラルの低い連中の側に、モラルのレベルを合わせてやらなければいかんのですか。

著作権法を遵守するというモラルに基づき、適切な引用が行われるのであれば、WEB上に公開されるあらゆる著作を断り無く利用することに、僕は賛成の立場を表明します。
これは繰り返し申し上げますが、何も書いてない口ばかりの外野としてでなく、著作者という当事者の立場からの意見です。

仮に「現行法が間違っている」と主張するなら、法律改正なり、国外で活動するなり、好きな道を選んで活動してください。
口だけの連中はもうお願いだから黙って身の程をわきまえて。

僕はお金の奴隷なので無料コンテンツ好きです宣言

毎度お騒がせしております、電子書籍作家の幾谷正です。

出版社を脱走して独立作家になってから早2年あまり、電子書籍の売り上げも順調に軌道にのってきて、すっかりクリエイター面が板についてまいりました。

特に無料お試し版を公開してからというもの、売り上げの伸び幅がたいへん素晴らしく、Twitterでも「無料だから試し読みしてみたけど2巻以降買う」というつぶやきを見かける機会なんかもあります。
フリーミアムというwebビジネスの方法をやっとつかめてきたような気がしています。

そして、そんな売り上げ帳票を作っている最中、目に飛び込んできたこの記事。

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連日、クリエイター界隈を非常に騒がせておりますね。もう見たという方も見飽きたという方も多いでしょう。
僕も以前から個人で本を売るための方策や活動について公開されている西野氏のクリエイターとしての発言に、ときに感銘を受け、ときに教示を得てきました。
ですがこの発言についてはかなり疑問符が付くところが多く、プロアマ問わず多くの方がこの内容に反論を送っています。

よく言われるのが「全てのコンテンツが無料になったらクリエイターは対価がもらえなくなる」という指摘です。
ですがこの指摘をしている人たち、このブログをちゃんと読んでいないんじゃないかと思いました。

西野氏は「制作スタッフには最初の段階ですでに給料が支払われています」と発言していますし、一万部を自費購入して印刷費を担保するという荒業も行っています。

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しかも無料にした結果、「もっと多くのお金が儲かった」という結果を大々的に誇示しています。

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この方はむしろ、クリエイティブの業界に誰よりお金を投じている側の人間です。

なのにどうしてこういった批判が起きるのかという点について、端っこに居る兼業クリエイターではありますが、自分のコンテンツを無料にしてみたことがある経験者の視点で突っ込ませていただきます。

お金が先か無料が先か

西野氏はおおむね正しいことを言っていますが、一点、完全に勘違いしたことを言っていると思います。

これから、無料化できるところから無料化していって、『お金』なんて、そもそも存在しなかった時代や、地域で、おこなわれていた『恩で回す』ということをやってみます。

まるで資本主義を打倒するみたいな論説に聞こえてちょっと冷や冷やしますが、はっきり言って僕はこれ、「勘弁してくれ」って思いました。

だって、お金という概念がなくなったら、無料という概念もなくなっちゃうじゃないですか。

先にも述べたように、僕が出している無料お試し版を皆がダウンロードしてくれるのは、多くのコンテンツが有料だからです。

¥500 ¥0

ってわざわざ書いた方が、みんな「お得!」って感じてくれるじゃないですか。

お金があるおかげで僕たちは無料コンテンツを強みにすることができます。
コンテンツの無料化とは要するに、資本主義の神様の手のひらの上で起きている出来事です。
無料コンテンツはお金の奴隷を開放することはできません。無料コンテンツという存在そのものがお金の奴隷なんです。

西野氏は「資本主義の中で無料にすることの正しさ」と「お金のない世界を作り出すことの正しさ」を混同してしまっているのではないでしょうか。
自分たちが資本主義の手のひらの上に居るなんてこと、普通に暮らしていればあまり自覚することもありませんからね。無理もありません。

もしお金のない世界を望むのであれば、アメリカで行われているバーニングマンというイベントに参加したらいいのではないでしょうか。

フーリガンがバーニングマンの「セレブ御用達」キャンプサイトを襲撃 – FNMNL (フェノメナル)

これ見よがしに金のかかる設備を持ち込んだセレブたちが、暴徒の襲撃を受けて大混乱なんて世紀末な出来事とかも起きてます。
僕はお金あんまりないけど、それでもお金のある世界の方がいいなって思いました。

西野さんってむしろお金好きなんじゃない

ブログ何度か読み返してみましたが、西野氏、例のブログの中で実に21回も「お金」という単語を使っています。
嫌いなものをこれだけ何度も打ち込むなんて、正気の沙汰じゃねえなって思います。

そもそも氏は、クラウドファンディングで資金を集めたり、自費購入をして見せたり、お金を使ったパフォーマンスがかなり派手です。
それは彼が芸能活動の中で勝ち得てきた信頼が、お金という形に一回変換されているからこそ、できることなんでしょう。

だったら、もう『お金』なんて要らないです。
僕とあなたの間から『お金』を取っ払います。

改めてみるとこの部分、誰がどう見ても嘘くさいですね。
カッコつけようとしすぎて言わないでいいこと言ってしまった感が拭えません。
正直これに関しては失言だったと思います。
炎上し始めた段階で、「やっぱお金は必要です!」って手のひら返して言っちまったほうがよかったんじゃないかなあ。

お金があるからこそ無料化できる

lineblog.me

この記事で西野氏は「入り口を無料することの正しさ」を切々と説いています。

僕自身、無料版を出したことでさらにお金が儲かった人間なので、この発言の意味するところはとてもよくわかります。
ですが、一つ間違えてほしくないのは、無料化すればだれでも儲かるというわけではありません。

全てのコンテンツが無料の入り口を作れば、宣伝や広告にお金をかけられる体力のある企業、つまりは強者が余計に勝つような激しい競争を生みます。
この記事で反論をしている声優の明坂さんのいるアニメ業界は、そんな疲弊が積もり積もって崩壊寸前の状況に追い込まれている代表的な業界です。

僕が自分の作品を無料公開しているのも、あくまでちゃんと食える本業があって、その本業で得た稼ぎと時間を投じれることから、無料化できているというだけです。
さらに言えば、僕は一度商業作家としてデビューした経験があるので、無名の素人さんたちに比べると格段に有利な状況で個人出版活動をしていますし、それを自分の強みとして利用しています。

兼業で余暇を使って文字を書いてるだけの僕はまだいいですが、業界全体が無料化のチキンレースを続けていけば、さらに自分たちを苦しめることになるでしょう。
最後に残るのは、もっともお金を稼いだ強い資本を持つ企業だけで、弱い人たちは誰も残らなくなるだろうと予想できています。
僕はそれを理解して、強者の側として、弱者を殺す覚悟をもってこの活動を続けています。

また、無料の商行為というのは課税対象とならず、よって富の再分配の対象にもなりません。
お金を儲けている企業が課税を受けない無料サービスを続けれれば、もっとマクロな視点で見れば社会格差は広がります。
そういう弱者を切り捨てる流れを肯定して受け入れるべきだというのは、強くなれない人間は死ぬしかないと言っているのも同じです。

西野さんの最大のミステイクはずばり、「無料化という強者の行い」と、お金のない子供を助けるという「弱者救済の美談」を同時に掲げてしまったことでしょう。
自分のお金に執着する汚い部分を炎上で焼いてもらえて、一番救われているのはご本人なのではないでしょうか。

もっと言えば、お客さん向けるべきパフォーマンスと、同業者に向けるべき本音の部分の話を、一度にやろうとしてしまったのが失策だったなって思います。
「金がもっと欲しいから無料化した」「更に儲かればもっと面白いことがたくさんできる」「だから俺はもっとお金が要るんだ!」
ここまで露悪的に言う必要こそありませんが、そんなことみんなわかってることですしね、正直。

『小説家になろう』での活動停止のお知らせ

皆様ご無沙汰しております、作者の幾谷正です。

今回皆様には大変残念なお知らせがあります。
現在『小説家になろう』サイトにて公開しております拙作『アーマードール・アライブ』の公開を、本日をもって中断することとなりました。
既に公開済みだった第二巻の内容を全文削除して第一巻分の内容のみの公開とし、設定も「完結済み」に設定しています。
これ以降の部分にかんして、なろう上で公開することはありません。

もちろん皆さんすでにご存じのとおり、この話がここで完結してしまったというわけではありません。
以降のお話は電子書籍として多数のストアで販売していますし、続きも鋭意執筆中です。

armordollalivepr.tumblr.com

さて、どうしてこのような状態に至ったかという理由を、順を追って説明させていただきます。
当初この「電子書籍で販売した内容を、追って無料公開していく」という公開形式について、なろう運営には問い合わせ行い、了承をいただいていました。
ですが方針の変更があったのか定かではありませんが、「販売している分の内容はすぐに公開するように」という連絡を先日頂き、対応行わない場合はアカウント削除されるという、大変厳しい通達がありました。
また、公開を行うつもりがない場合は、キリのいい部分までとして完結済みにすることでも良いというお話だったので、内容としてキリの良い、第一巻にあたる一部のみを残し、完結済みとすることで対応いたしました。

当初自分も第三巻の内容をこちらで公開するか否か、かなり悩んでいました。
ですが、対価を求める個人出版を続けていく限り、今後もなろう運営と衝突してしまうことは避けられないという点。
また、なろうでお気に入り登録していただいてる読者より、さらに多くの方に電子版を買って頂けているという点。
以上の二点から、電子販売と無料公開の両立は不可能であると判断し、こうして更新停止という着点に至りました。

もしこれがpixivを利用しているイラストレーターで、「同人誌のサンプルをpixivで公開して電子販売」とかだったら、何も言われないところなんですがね。
文字書きに用意される無料小説投稿サイトの状況は、絵描きに用意されているそれらに比べて、いまだちょっと厳しいものが多いなと正直に言って感じています。

本を書くことで収入を得たい、しかし無料でも読んでもらえるならば多くに読んでもらいたい。
二つの理想を同時に叶えようとして始めたこの先行有料公開という変則的な取り組みですが、こういった結果になってしまい、大変残念に思います。

ですがこの判断はむしろ、電子書籍販売の売り上げが好調で、これだけで十分やっていけるという確証が持てたからの決断でもあります。
確かにweb小説を読んでいる人たちが電子書籍を買ってくれることはあまり多くはありませんが、もともと電子書籍を買ってくれている人たちがストアで買ってくれる数は思った以上に多いものでした。
言わば僕は電子書籍作家になってしまった人間なので、『なろう』という環境からは卒業せざるを得なくなった、ということかもしれません。

ただすべて削除してしまうのは忍びなく、また一巻はもともと販売ストアでも無料お試し版として公開しているので、その部分については今後も無料公開として残していきます。
(無料お試し版で公開しているにもかかわらず、一巻の売り上げはいまだに結構増え続けています)

僕がここに戻ってくる日が今後あるのか、今はまだわかりませんが、皆さんがこちらに来てくれる日のことを僕はいつでもお待ちしております。
それでは、しばしお別れとなります。今までなろう作家として応援していただいた皆様、本当にありがとうございました。

また余談ではありますが、並行して同じように無料公開している『カクヨム』サイトの方では、現在の公開形式について未だに注意など受けておりません。
そもそも、読者数が少なすぎて、公開媒体として全く機能していないのですがw

以降、無料公開行う場合については『カクヨム』を代わりに利用していくか、あるいは無料公開という方法に固執すること自体をやめにするか。
いろいろと考えてみたうえで追って判断してみたいと思います。

同じKADOKAWAなんだからカクヨムBOOK☆WALKERでなんか連携サービスとか始めてくれねーかなあ(本音)

僕は作家をやめるために作品を書いている

絵でも文章でも漫画でも、プロレベルの技術を持って活動するアマチュアを数多くネット上で目にする。
ツールや技術の発達のおかげもあるだろうし、発表の場が増えたおかげもあるだろう。
ネットで作品を公開していた人が、評価を受けてプロの作家として活動するようになる報告も数多く目にする。
彼らの中には、プロデビューを目的として作品を書いている人も多数いるだろう。

かく言う僕も学生の頃。学業のかたわら執筆活動を行い、賞に応募して受賞を受け、一時期作家として活動した経歴を持っている。
だが作家であることとプロであることの狭間で悩んだあげく、商業プロとしての活動を諦め、個人で電子書籍作家として活動する道を選ぶことにした。

で、どうもときどき勘違いされることがあるのだが、どうも僕のことを「プロとして再デビューを目指して未だに書き続けている作家」と思っている人が居るらしい。
そしてその勘違いを根拠に、僕の活動を批判する人も若干だが居るようだ。

たしかに「一度は商業プロに後ろ足で砂をかけた人間が、性懲りも無く出戻ろうとしている」となれば、それは恥知らずとして批判されていい。僕もそう思う。
だが、僕は別に「商業プロになるために作品を書いている」というわけではない。むしろ「作家を辞めるために活動を続けている」という方が正しいぐらいだ。

たぶん、こんな妙な考え方は常識的にあり得ないもので、ある程度くわしく説明しないと伝わらないのだろう。
なので、長々と自分語りをしてしまうことを、どうか許してほしい。

まず僕が商業プロを辞めようと思った切っ掛けは、「自分が作家として書ける最高のもの」を目指した作品が、商業の場で全く通用しないと気付かされたからだ。
もちろん僕の実力不足もあるだろうし、商業という場特有の需要とか流行りとか、色んな要素を総合的に含んでの結果でもある。
別に僕は自分の作品が〝通用している他の作品〟に比べて、劣っているとは思わない。面白いと言ってくれる読者の期待にも最大限応えられていると自負している。

だが「求められるものを書けない」のも「自分の書きたいものを曲げられない」のも、あくまで僕がプロとして劣っているというだけだ。

僕が商業プロとして劣っている。それが理解できた以上、商業の場に居続ける意味は見いだせなかった。
書きたいものを書けなくなる状況に自分で自分を追い込めるほど、商業活動に魅力を感じてはいなかった。
だからプロを辞めたわけだし、再デビューという選択肢も今のところ考えていない。
もしその気があれば、とっくにどこかの賞に送っている。僕には受賞できる実力があるのだから、これは嘘でもなんでもない。

今優先すべきは、作家として書きたいと思った一作を書き切って、自分が本当に作家になれた人間かどうか見極めることだ。
作家は作品を作ることを求められる人間のことではなく、求められる作品を作れた人間のことだと思っている。
僕の今書いている作品はまだ未完成なものだし、あと10巻ぐらい書き続けてようやく作品として完成できる見通しだ。

その作品が通用するかどうか、求められる作品だったのかどうか。完成させて、確かめることが今の所の目標になっている。
〝求められる〟と言葉だけでいうと曖昧だが、例えば「作品だけで生活できるぐらいの収入が稼げる」となれば、おそらく僕は作家なのだろう。
僕が作品を電子書籍としてパッケージングして、販売活動をしているのは、自分の力で作家になれるかどうかを試す指標にするためのものだ。
誰かにプロにしてもらうための活動とは、根本的に目的が違うし、その意味で僕の活動はプロになるためのものではない。

加えて言うなら、そもそも電子書籍の収入がなくても、本業だけで充分生活できているし、困窮まではしていない。
酒も煙草も女もギャンブルもやらないし、車も持っていない。配偶者も居ない。
ただ、作品を書く自分という存在を維持することだけを目的に生きている。

だが、創作とは関係ない労働に時間を費やしている現状にだけは不満を感じている。
もし作品の収入だけで生活できれば、生きる時間を全て創作に費やせるので、その点で言えば作品としての収入は欲しいと思っている。
だがもし、そういう生活が「絵空事」でしかないとしたら、僕は作家にはなれない人間なのだろう。
だからこそ、自分の作品を売り込む編集としての活動もまた、真剣に取り組んでいる。
作家も編集も、最大限のベストを尽くした結果として、今度こそ負けたい。だから自分で編集をしているのだ。

ここまで僕の話を聞いてくれた人、ありがとう。
だが、それがどうして「作家を辞めるための活動」なのか、疑問に思っている人もいるだろう。
これも僕の個人的な考えなのだが、「作家であること」と「プロであること」の両立はとても難しいことだと考えている。
だからまず、作家になるために頑張ってみて、通用しなくて、負けた結果として、次にプロになることを目指したい。

小説にさえこだわらなければ、「話を書く」とか「ストーリーを作る」としてのプロは幾らでも選択肢がある。
不思議なことに、一番大変な小説が一番儲からなくて、話だけとかストーリーだけにしぼった方が、安定した仕事になり得るのだ。
これは「世の中に求められるものほど価値があり、それに掛かる労力は価値とは関係ない」という、ごく当たり前の常識から来るものだ。
学生デビューしてしまった当時の自分はこの常識が理解できず苦しんだと思うし、少なからぬ社会経験を積んだ今、やっとこのルールを理解できたとも思っている。

何度でも言うが、僕は自分の作品に作家としてかけられる全てをかけている。
それが通用しなければ、僕は作家にはなれない人間なのだ。
とりあえずその是非を確かめるために、本業のかたわら作品を書き続け完結を目指そうと思っている。

そして作品を完結させて、作家になれなかった自分との折り合いがついたところで、改めてプロを目指す道を進みたいと考えている。
今〝自分の書きたいもの〟を抱えたままではプロにはなれないし、これを抱えたままプロになったところでどちらも中途半端にしてしまう。
生活するための仕事を続けつつ作品を完結させ、自分が作家になれないとはっきり結果を出してから、改めて創作としてのプロを目指すつもりだ。

だが、おそらく目指すプロの選択肢の中に「ライトノベル作家」は含まれていない。せいぜい「要望があれば小説も書ける」と特技の欄に書かれるぐらいだ。
はっきり言って、それぐらい小説という能力は需要のないものだと思っている。
今小説を書いている人間の大半は「作家」ではなく「出版社の紙書籍の刊行点数を埋めるために文字を生産するライター」だ。
彼らの撤退戦を援護するために命を賭せるほど、小説に対する信仰心を僕はもう持ってはいない。持つ人が目指せばいいのであって、それは僕ではない。

それより自分の人生を賭けてみたいジャンルは、まだ自分の中にたくさんある。
だが、自分の書きたいものを抱えたままでは、あまりに体が重すぎる。
僕にとって作品を作るというのは、それぐらい重い呪いなのだ。軽々しく思ってほしくはない。

急に話は変わるが、僕の大好きなアニメ『少年ハリウッド -HOLLY STAGE FOR 49-』には、こんな一説が登場する。

「人生に人生はかけられない」

この台詞が登場する回自体、とんでもなく挑戦的な珠玉の名エピソードなのだが、一度は夢を追ったことのある人間として、とても身につまされる言葉だと思う。

全てを注ぎ込んだ作品を書ききって、それで作家になれるというのなら、もちろんなりたいと心から思っている。

だが、もしなれない人生だったとしても、別にそれはそれでいいのだ。最近、やっとそう思えるようになった。
それは作家という人生をあきらめたとき、初めて何かに人生をかけられるようになるだ。
だから僕は作家をやめるために作品を書いている。

Kindleで二次創作作品が販売されていたのでカスタマーサービスに問い合わせてみた

先日、Amazonが展開している電子書籍販売サービスKindleにて、面白い本がないか探していたところ、ふと気になる個人出版作品を発見しました。

なんと、商品紹介の一文で「この作品は『涼宮ハルヒの憂鬱』の二次創作です」と明言されているのです。

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確かに日本のコンテンツ産業は、二次創作によるアマチュア文化に寛容ですし、それによる金銭の取引もある程度許容されています。
しかし、あくまでそれは日本国内の話であって、海外企業であるAmazonが主体であるKindleでもその常識は通用するものでしょうか。

また、同人誌の販売は個人が印刷代を負担する必要があるからこそ、大きな利益が出にくく著作権違反に関して見過ごされてきた面がありました。
しかし、印刷代がかからず負担金無しで販売できてしまう電子書籍という媒体は、売れれば売れるほど利益が出てしまうため、これまでの紙ベースの同人活動と違って危険視されている部分があります。

今まで「儲からない」と言われてきた電子書籍界隈ですが、徐々にその常識は打ち破られてきています。
僕自身、紙媒体では到底達成不可能な額の利益を同人小説で既に稼ぐことに成功しています。
また、KindleUnlimitedという読み放題サービスの登場以降、ヒト月で数百万の利益を得ることができた、なんて事例も出てきています。

Kindle Unlimitedに参加したら月296万円稼いだ話 – 同人サークル「IronSugar」の戯言帳

今や多くの同人作家の方々が、この魅力的なマーケットへの参加を意識していることでしょう。

ですが著作権侵害をしている同人作家に、この魅力的なマーケットに参加する権利はあるのでしょうか。

もちろん「問題があればそもそも販売することはできないはずだ」と思われる方もいることでしょう。

しかいs、KDPのシステムは基本的に、どんな商品でもシステム的に問題がなければ全て販売許可を出し、問題があると報告があれば削除をしていく方式をとっています。
これによって膨大な販売数を維持していますが、同時にシステムの穴を突けば問題のある商品であっても販売登録できてしまい、不当な方法で金銭を稼ぐことができてしまう問題も孕んでいます。
今まで見つからず報告されていなかったというだけで、こうした二次創作が、Amazon側にとって「システムの隙を突いた問題のある作品の一つだった」という可能性はじゅうぶんにあり得ます。

とにかく今後、「Kindleで二次創作を売るのはアリなの? ナシなの?」という疑問は今後議題に挙がってくる可能性は高いと思います。
なので今回、試しにこの二次創作が違反として扱われるかどうか、試しに通報してみることにしました。
なあに魔女でなければ殺しても死なないハズだ。

Amazon.co.jp ヘルプ: 知的財産権侵害についての申し立てとその手続き

とりあえずAmazon公式から「第三者の知的財産権を侵害していると思われる商品、注文に係る問題、および出品者の規約違反行為等に係るお問い合わせ」のガイドに従い、問題報告の問い合わせを出して見ました。

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もちろん僕は著作権を侵害された当事者ではないので、第三者として通報する権利しか持ち得ません。
侵害に対して問題かどうかを決めるのは、作品の著作権を管理している作者ないし委任されている出版社です。
この場合、「涼宮ハルヒの憂鬱」というタイトルの著作権を有している角川書店が、シロかクロかを裁定する当事者となるわけです。
なので、KADOKAWAの公式サイトに対しても、問題に当たらないか否かを同時に問い合わせをしてみました。

その後、問い合わせに対して何の返答もなく2週間ほどが経過し「厄介なクレーマーとして無視されたのかなあ」と思いつつ、問題の商品ページを確認してみたところ。

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はい。ものの見事に商品ページそのものが削除されていました。

問題アリと裁定を下した主体がAmazon側なのかKADOKAWA側なのか、自分の立場から知ることはできませんが、とりあえずここに一つの結論は出ました。

KindleDirectPublishingで二次創作を販売するのはアウトのようです

最近は日本国内の大手同人ショップの数々も、同人誌のDL販売を開始していますが、この堂々とした著作権侵害物の販売に対して問題視する声も上がり始めています。

hametuha.com

電子書籍サービス最大手であるAmazonが今回取った二次創作に対する判断が、今後の同種サービス全体の標準になっていくのか否か、個人的には注目したいところです。

コミケの創作文芸サークルで電子書籍を販売してみました

オタクもオタクじゃない人も名前だけなら知っている。東京ビッグサイトで行われるという、巷で話題の夏の陣。
というわけで先日開催されたコミックマーケット90に、電子書籍サークルである当「FunnyCreative」も初の実媒体イベントとして参加してきました。

funny-creative.hatenablog.com

今回はDLコード付カードを使って「電子書籍を実イベントで売る」という、あまり見たことのない未知の試みに挑戦してみたわけですが、思った以上に気付かされることが多くありました。
同様の試みされてる方はチラホラとお見かけしますが、「紙と比較してどうか」という点について、自分はそれなりに確かな見識をもって述べることができると思います。

実は僕個人としては、学生時代に大学の漫研サークルとして参加して合同誌に寄稿したり、個人でも小説本を1冊作ってみたりと、サークル参加の経験は多かったりします。
また、一般参加(俗に言う買い専)としては連続20回、大学一回生の頃から十年ほぼ欠かさず夏冬参加しているので、コミケ自体についてはベテランかなと自負しています。

なので実はかなりコミケガチ勢だったりする自分が、「電子書籍コミケで売るってアリなのナシなの?」という観点について、私見を色々と書いてみたいと思います。

利点について

とにもかくにも印刷費が安い

今回自分が頒布した電子書籍のデータは、現在AmazonのKindleDirectPublishingを利用して2巻まで販売している拙作『アーマードール・アライブ』。

アーマードール・アライブⅠ: 死せる英雄と虚飾の悪魔

この最新第3巻をイベントで先行販売する、という体でプレリリース版として配布した形です。

作品概要としては

EPUBデータ本体約5,000KB
文字数ではおよそ10万文字
文庫に換算して約250頁程度
表紙はフルカラー
印刷部数は50部

これが僕が今回販売した作品の、数字上での仕様です。
仮にこれを紙に印刷して文庫として販売した場合、どんな感じになるでしょうか。
ためしに同人誌印刷所の大手、「ねこのしっぽ」さんでペーパーバックとして印刷した場合の値段を調べてみました。

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この料金表を見る限り、およそ6万円程度。
つまり60,000÷50=¥1,200というのが、この本1冊あたりの数字になります。
もちろん同人活動は趣味なので、利益を求めず印刷原価をそのまま頒布価格としたいところですが、それでも1,200円というちょっとしたハードカバーみたいな値段になってしまいます。

「なんでそんなに高いの!?」と驚かれる方もいらっしゃるかも知れませんが、よく考えると実は当然のことなのです。

まず商業作品として流通している出版社の出している本は、一度に何千部という数を刷ることで1冊あたりの値段を安くしています。
なので少部数しか刷らない同人誌としての印刷は、かなり1冊あたりの値段が高額になってしまいます。

また、一般的に同人誌と言われるものは、多くの作品が漫画本の形態を取っています。
平均的に1冊およそ24~32ページ程度、これを100部ほど刷って500円で売れば、充分元が取れるどころかむしろ利益が入ります。
「同人誌は1冊500円」「商業媒体だとライトノベルは高くても800円」という二つの先入観が、「同人小説1冊1,200円」という価格を突拍子もなく高く感じさせてしまうのかもしれません。

このどうしても1冊あたりのページ数が多くなってしまいやすい同人文芸特有の問題は、かなり多くのサークルの頭を悩ませてきました。
もちろん、全て売り切ってやっと差し引きゼロになるという話。一度のイベントで売り切れなければ、当然それだけの赤字を持ち越すことになります。
また、イベント参加費と交通費、在庫の運送費も毎回かかることになるので、売れ残るほどにマイナスがかさんでいきます。

僕自身もお金に余裕のない大学時代の頃に同人小説を作っていたので、商業作家として稼いだ印税を同人活動で散財するという、かなり道楽じみた活動をしていたと思います。
(今思えばかなり良い経験になったなと思いはするものの)

大して今回、僕が「CONCA」と「でんでんコンバーター」を利用して作成したEPUBデータとDLコード付カードについて。

まず当ブログでも何度かご紹介させていただいてる、毎度お世話になっている「でんでんコンバーター」ですが、フリーのWEBサービスなのでここでのEPUB作成経費は0円。
そして今回初めて利用した「conca」ですが、DLコード付のカードを指定枚数印刷して、固有のコードを枚数分生成してくれるという、かなり便利なパッケージになっています。
カード厚さ0.5mm、50枚でデータ3種類までのコースで注文したので、ここでの経費は大体税込みで1,5000円ぐらいでした。

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(こんな感じのプラスチックカード。実物を手にしてみるとかなりしっかりした造りで、グッズとして作っても満足感ある)

1,5000÷50=300円と見れば、ほぼ1冊300円で作成できてしまった計算になります。
もちろんこれはページ数に全く依存しない数字なので、10ページだろうと1000ページだろうと同じぐらいの値段になります。
少なくとも僕の場合、実に900円も安く作成できたことになります。

これはサークル側にとって有り難い話ですが、もちろん安く作成できる分、頒布価格もそれだけ安くすることが可能です。
200ページ10万文字の文庫本を300円で読めるだなんて、活字好きにとって決して損な話ではないはずだと僕は思ってます。

会場内入稿すら可能とする作成の便利さ

次に、同人誌の作成時間と締め切りの話です。
紙印刷を行う際には、当然印刷所側が提示した締め切りに間に合うよう、原稿データを万全に用意して入稿しなければなりません。
また、入稿済みのデータにあとで不備が見つかった場合、データを差替えて修正するという融通もなかなか難しい所があります。

一つ直前入稿の手段として有名なものに「コピー誌折本」というものがあります。
原稿を普通のコピー機でコピーして、折りたたんでホチキスで止めて本にしてしまうという代物です。
これなら機材さえあれば誰でも簡単に安く作るので、時間がないサークルには有効な手段として扱われていますが、実はそう簡単なものでもありません。

人の手を使っての作業になるので当然限界はありますし、ページ番号の間違いミスなどの危険性も伴います。
とにかく根気と労力の作業になるので、冊数に制限こそないものの、50冊作るだけでもかなりの苦行になるでしょう。
もちろん、数百ページに及ぶ小説本でこの手段を取るのは、とても現実的とはいえません。

ですが今回自分は、東京での滞在先のホテルにノートPCを持ち込んで、イベント前日のギリギリまで粘って原稿作業を行うことができました。

これも電子書籍の利点で、要は「イベント当日までにサーバー上にDL用のデータを上げておけばいい」だけなので、極論を言えば当日会場内でデータをアップロードしてしまってもいいわけです。
もちろんカード自体の印刷に時間を要するので、2週間ほど前に表紙のイラストだけでも完成させておいて、先に印刷の手配だけしておく必要はあります。
ですがそこから2週間ほど本文の作業に入る余裕が残されているわけなので、忙しい社会人サークルなどにとってはこれほど助かる話もないでしょう。
なのでイラストレーターの友人に対して自分も「表紙さえ2週間前に上げてもらえればあとはこっちでなんとかする」と、かなり強気なスケジュールで進めていました。

印刷所依頼にしろコピー誌にしろ、ギリギリになればなるほど誰かが苦しむことになるのは必定なので、その辺りについても人に優しい形式と言えると思います。

もちろん、時間があるからと直前まで作業を先延ばしにしてしまい、かえって余裕がなくなってしまえばかえって欠点かも知れませんがw

小さいことはいいことだ

ここまでは作る前から利点だと感じていた部分ですが、これは作ってみて初めて感じた利点でした。
同人誌を作る際に必ずつきまとう問題に、本自体の在庫の扱いに関するものがあります。
毎回イベントの度に重たい段ボールを用意して、カートに積み込んで会場内まで運び込む必要があります。
また売れ残れば安くない運送費を払って家まで郵送し、部屋のスペースをいつまでも専有し続けることになります。

また、ブースを何かの理由で空けなければいけない際など、大事な本を持ち歩くことなどできるわけもないので、店番を人に頼むとか近くのサークルに見張りをお願いするとか、色々と対策が必要になってきます。

ところが今回作ったDLカードは、言ってしまえば数十枚のプラスチックカード。ちょっと厚めのカードデッキ1パック分ぐらいの容量です。
搬入も搬出も、ケースに入れて鞄に入れておくだけで簡単お手軽。ブースを離席する際も同様です。

欠点について

EPUBデータの開き方

今回もっとも自分の頭を悩ませたのは、「どうやってEPUBデータを読んでもらうか」という点についてでした。
まだ充分浸透していないEPUBのフォーマットですが、それが安定して開けるリーダーや閲覧環境もまだ未整備の状態にあります。
これが単なるjpgやpdfなら説明ナシでも済むところですが、epubの場合は「どのソフトをどう使えば開けるか」から説明する必要があります。

とりあえずWEB上でepubの閲覧可能なソフトやその使い方紹介について調べ、〝READ MEテキスト〟を用意することでこの対策としました。
今のところ「開き方が分からない」という問い合わせは頂いておらず、読了報告もいくつか頂けており、問題がなかったようでホッとしています。

ですが自分の場合は、元々電子を主体に活動していたサークルという前提があるので、購入していただいた方々もやはり元々理解のある方がほとんどです。
既に閲覧環境を導入済みの方も多かったことと思われます。

なので、「今まで紙主体で活動してきたサークルが電子媒体に移行する」場合、その読者が以降に対応できるかどうかは大きく問題になるでしょう。

会場での展示の仕方

これは完全に今回失敗したなと思ったのは、とにかく「何を売っているのかわかりにくい」という一点でした。

とりあえず作品のデータをあらかじめ入れた電子書籍端末を試読サンプルとして横に置き、カードを並べて頒布用ディスプレイを作ったのですが、これがとにかくわかりにくい。

「これは何を売っているのか」と、逆に興味を持って尋ねてこられる方もいたのですが、紙書籍がずらりと並ぶ一帯で、カードと端末だけを並べている自分のブースは、正直かなり浮いていました。

一応あとで聞いてみたところ、concaを作品販売に利用しているサークルは他にもいくつかあったと聞いています。
ですがそれは、元々データ形式のものを販売している同人ゲームジャンルで活動しているサークルの話で、文芸ジャンルではおそらく僕一人だったのではないかと思われます。

もっとも、電子書籍の利用人口が今後増えていけば、この辺りの問題は自然と解決されていくのかも知れません。

DLコードの使用期限

これはCONCAにおける唯一の欠点らしい欠点ですが、実はDLコードは無期限ではなく1年間という利用可能期限が設けられています。
カードに印刷されているコード自体が1年で使えなくなってしまうので、1年後にはただのカードになってしまうというわけです。
(グッズとしてみればまだ利用価値は何かしらあるかも知れませんが)

なので毎年毎年既刊を何度もイベントに持ち込むという使い方はできず、その1年以内に刷った枚数を売り切る必要があります。

もっともこの点に関しては「売り切るつもりで作っていない作品は何度イベントに参加したところで売り切れない」という僕なりの持論があるので、あまり欠点ではないかも知れません。
確実に売り切れる枚数を見据えて、売り切れる分だけ作る。そういう勘みたいなものが、養われているか否か次第と言えるでしょう。

総評として

  • とにかく今回一番の収穫だったのは、WEB上で活動しているだけでは届かない、実イベントで同人小説を嗜んでいる方々に、「こういう活動をしている人間がいる」というアピール行う機会を得られたことでした。

 もともと続き物の途中巻を売るという企画だったので、既存読者以外に売ることはあまり意識していなかったのですが、会場で興味を持って頂いた方にKindleで販売している既刊の存在をお伝えする営業の機会になったのは嬉しい誤算です。

  • 利点と欠点について、まとめて言ってしまえば「利点はサークル側が助かること」「欠点は買う側が理解していないこと」のとにかく二つだけだと思います。

 買って頂ける側に、サークル側を助けると思ってこの取り組みへの理解を求めていくことが、今後の大きな課題でしょう。
 それが進めば、創作文芸というジャンル全体が今以上に盛り上がっていくのではないかという一抹の期待もあります。

  • 短期的に見てこの取り組みが何かの得になるかといえば、ぶっちゃけてしまうと特にはありません。一万円ちょっとの出費で趣味的に出来ることとしては、かなり楽しい部類であったことだけでは確かです。

 同じ事をするのに今まで5万とか6万とか掛かっていたことに比べれば、という話ですが。
 電子書籍で既に充分儲かっているので、実媒体で同じように儲けようという気が起きないだけなのですが。

  • 僕がこの試みに期待していることは、今まで紙媒体で活動してきた創作文芸関係の読者と作者たちが、電子書籍という舞台の存在に気付き興味を持ってくれることです。

 人が増えれば物が増え、物が増えれば人が増えるというのが市場の鉄則です。電子媒体そのものに顧客が増えれば、僕の本が売れる確率も今以上に増えるので、その点については利するところがあると言えるでしょう。

  • プロになりたいというほど情熱があるわけでもなく、かといって手間と時間とお金をかけて同人小説を続けて行くのも限界を感じている。

 そういった、ある意味〝海とも山ともつかない〟立ち位置に居るアマチュアの皆さんにとって、電子媒体というのはとても居心地の良い環境だと自分は思っています。

  • 電子書籍で一万円の利益を出すのは、そう難しくはなく簡単な部類の問題です。

 しかし一万円を使ってどうすれば読者を増やすことができるかは、かなり難しい問題です。
 ここの不可逆性を同解決していくかが、電子書籍に取り組むうえでの大きな問題だと僕は感じています。

二次創作はどうして合法にはならないのか

ちかごろtwitterで二次創作の規制に関する議論が、当の同人作者そっちのけで毎日過熱しているが、僕も一次創作やってる人間としてちょくちょく首を突っ込んで要らんことをよく言っている。

その中でふと気付いたのだが、「公式は二次創作の存在を黙認している」「法的には違法だがただちに損害を与えるものではない」というのが、容認派がよく口にする言葉だ。

考えてみればおかしな話で、どうして「問題がないものを著作権は違法としているのか」という疑問が沸き立ってくる。

二次創作を禁止する法律を著作権からなくして、誰でも自由に二次創作ができるようにすれば、問題も最初から起こらない。

どうしてそうならないのか、そうすべきではないのか、という視点から二次創作にまつわる話を個人的に調べてまとめてみた。

キャラクターの使用権利について

まず「二次創作が違法として裁判沙汰になった事例はない」という勘違いがよく見られるので、先に整理しておく。

今から60年まえとかなり古いが、バス会社が作者に無許可でキャラクターの絵を観光バスにプリントして運行を行った『サザエさんバス事件』がよく話題にあがる事例だ。
作者である長谷川町子氏は勝訴し、損害賠償もきちんと受け取っている。

サザエさんバス事件 – Wikipedia

ネットでは「ディズニーに手を出すのは危険だ」なんて都市伝説が流行っているが、実は日本の国民的アニメであるサザエさんの方がむしろヤバかったりする。
作者である長谷川町子先生は既に没されているが、作品の著作権は財団法人長谷川町子美術館に移され現在も管理されているため、死んだ人の作品だから今は何やってもいいというわけでもない。

あれだけやりたい放題だった『おそ松さん』もちゃんとフジオプロ公認だしな!

また、ポパイというキャラクターを勝手にネクタイにプリントして販売し、最高裁まで争った『ポパイネクタイ事件』がキャラクター保護を取り巻く事件としては有名だ。

「ポパイ」著作権侵害第3事件

実は著作権法上、「キャラクターそのもの」は著作物として保護されていない。
あくまで保護されるのは漫画や小説などの作品であり、キャラクターはその中に存在するイメージや表現という付随物だ。

だがこの事件では、「〝水兵帽をかぶり、水兵服を着、口にパイプをくわえ、腕にはいかりを描いた姿の船乗り〟は誰が見てもポパイだし、特定のコマのトレスじゃないけど無断複製あつかい」という判決がくだされている。

もちろんこれらの事件は被害者側が訴えを出したことによって、事件へと発展してしまったに過ぎない。
だが、「キャラクターの無断使用は公式側が本気で訴えたら負ける」というのは、噂や都市伝説でもなく判例に基づいた事実なのだろう。

なぜ無断使用が禁じられているのか

そもそも法律というものは、ないよりあった方がいい。
モノを盗むことが罪に問われない社会と、罪に問われる社会。どちらが経済的に発展し豊かになるか、というごく単純な話だ。

著作権に関しても同じ事が言えて、「なぜ無断使用が禁じられているか」と言えば、「公式側の利益にならないから」だ。

許可された副次創作物は公式に版権料を納めているため、コミカライズなどの副次創作物によって得られた利益は、公式側に還元される。
その利益はコンテンツが稼いだ総額に計上されるし、キャラクターデザインなど原作に携わったクリエイターに様々な形で取り込まれる。

「○○先生のキャラクターデザインが素晴らしいので同人誌出します!」なんていう同人作家の態度は、ハッキリ言って「あなたのものが欲しいから盗みます」という広言以外の何物でも無い。

たとえば最近では、二次創作を行っている作家に公式側が声をかけて、いわゆる公式アンソロジーという出版物を出すこともある。
そのおかげか、無許諾アニパロの書店販売も最近では滅多に見かけなくなった(代わりに大型書店が同人アンソロを置くようになっただけなのだが)

anond.hatelabo.jp

一部の出版社に限られるが、公式側は二次創作を〝黙認〟ではなく、むしろスカウトの場という〝容認〟のスタンスを取っているし、僕自身も取るべきだと思っている。

ちなみに、同人誌の大部分を占めると言われる「二次創作エロ」に関しては、問題の根ざすところがまた違って見える。

たとえば昔、人気アイドルの顔写真を、グラビアアイドルの体に貼り付けて、エロイ格好をしたアイドルの写真を捏造する「アイコラ」なんて文化があった(今もあるのかな?)
アイドルという実在の人物は肖像権で守られているので、「人の写真をオモチャにするな」と言えば即御用だが、先にも述べたようにキャラクターの人格は著作権で保護されていない。

アイコラや二次エロの問題点は、アイドルという事務所が持つ商材のイメージを損ない商品価値を下げる、業務妨害という問題点を持つものと思われる。

二次創作を合法にすることの問題

二次創作の違法性を認める法律は、大きく言って以下の二つがある。

1.明らかなキャラクターの複製を禁ずる複製権
2.著作物の改編切除を禁止する同一性保持権

「各々の二次創作がこれらに違反しているか否か」を論じる前に、まず「これらを違反とする意義について」を根本的に考えてみたいと思う。

1つ目の勝手な複製が禁じられているのは、当たり前の話で、「著作によって得られる権利者の利益を損ねる」からだ。
複製権が保護されなくなれば、例えば何が起きるか。

わざわざ個々のクリエイターに対して「代金を払って何かを制作させる」必要がなくなり、既存のものを勝手に使用すればことが足りてしまう。
儲かるキャラクターを各々で利用すればよく、新たなキャラクターを産み出す必要がなくなってしまうのだ。
当然、作品を作りだすクリエイター側も、仕事量が安くなるし勝手な無断転載を咎める根拠を失ってしまう。

しかし商業作品において、作品の著作権を作者本人が持っている保証はない

例えば漫画家がある出版社からコミックを出した場合、出版社と作品の著作権に関する契約書を結ぶのだが、ここで複製権などの権利は契約書上で出版社に委譲されるケースが多い。
それを行わなければ、キャラクターグッズや増刷を行うたびに、いちいち作者に許諾を取らなければ出版社が違法となってしまうからだ。

なのでどれだけ作品の著作権が侵害されていたとしても、作品の著作権を委譲されている出版社が動かない限り、作者本人は被害者として訴えることすら法律上不可能となる。
複製権の侵害によって不利益を被るのは出版社自身も同じだが、被害の規模が小さいからとわざわざ取り締まりを行わず黙認してしまっている。

出版社が守るべき権利の保護を放棄しているのは、単に作家の保護を体よくサボっているだけにも自分には映る。

2つ目の同一性保持権は、Wikipediaの記述を丸呑みすれば〝著作者の意に沿わない表現が施されることによる精神的苦痛から救済するため〟とされている。

同一性保持権は譲渡不可能な著作人格権に属する権利のため、書類上出版社が権利を有している作品であっても、作者不朽の権利として行使することが可能だ。

ファンがある同人誌に対して〝○○はこんなこと言わない!〟とケンカしている限りにおいて問題はないが、作者本人がもし二次創作に対して同じように思い一緒になって〝俺の○○はこんなこと言わない!〟と言ってしまったら大問題だ。
同一性保持権の侵害としてきちんと立件できてしまう。

作者が個人作家に対してこれを行ったという凡例は今の所ないが、ゲームに対して〝攻略ヒロインを勝手にデレやすくする〟という罪状で訴えられた『ときメモ事件』が有名である(ちょっと嘘を言ってます)
また、『ドラえもん最終話問題』も、実際の立件までは至らなかったが、仮に裁判沙汰になっていればこれを根拠に有罪とされていた可能性が示唆されている。

ドラえもん最終話同人誌問題 – Wikipedia

これは類似の翻案権が財産的利益を保護するものに対し、あくまで「作品を勝手にねじ曲げられたくない」という人格的利益を保護するための権利である。

pixivなどの界隈でも、他人のオリジナルキャラクタを借りるとき、「そちらの子ちょっと借りますね」と作者にお願いしてから描くのが礼儀になっているし、それを怠れば歴とした違法行為だ。

全ての創作者が尊重し、尊重されるべき権利であるにも関わらず、商業作家の作品は公共物だから権利を守らなくても良いと同人作家が当然のように認識しているのは、やや不気味に感じられる。

もし創作仲間の友人がある日プロの作家になったとき、その人のオリジナルキャラを借りるとき、同人時代と同じようにちゃんと許可を取るだろうか。
それとも他の商業作品と同じように無断でキャラを借用することが許せるのだろうか。

二次創作に被害者はいない

自分のような作品のファンには、副次創作物の購入に際して二つの選択肢がある。

一つは公式に許諾されていて、正当に許諾されて一次創作者に利益が還元されるオフィシャルなコミカライズやノベライズ作品。

もう一つは、ファンが公式に許諾を受けず自由な発想と創作性で産み出した、違法で無許諾な二次創作作品だ。

ぶっちゃけ僕はここ数年、前者を買った経験が一度も存在しない。
後者の方が面白くて見応えもあるし、種類も豊富なので自分の好みにあったものも見つけやすい。
版権元が儲かろうと儲かるまいと、二次創作の方が面白くて魅力的だから、コミカライズを買うという選択肢がそもそも存在しないのだ。

また、世のキャラクターグッズの多くは公式に版権料を納める必要があるため、商品そのものの製造コストへ更に権利料が上乗せされて若干高く値段が設定されている。
そういった文脈を無視して、公式に権利料を納める必要の無い非公式グッズが、公式グッズと同等か安価な価格で販売することは、明らかな不正競争だろう。

昨今、漫画アニメの市場規模縮小や人材不足が叫ばれ、アニメーターの低賃金問題や作家の原稿料の安さがネットのあちこちで問題になっている。
だが景気の悪い話ばかりでもない。
ニュースサイトの記事によると、同人市場の市場規模は、757億円の巨大市場でなおも増益を続けているという。

矢野経済 2014年の「同人誌市場規模」3.4%増 | ニュープリネット

この全てが二次創作というわけでもないだろうが、かなりの分率を含んでいるのは事実だろう。

本来公式の人間達が受け取るべきだった利益を、不当に奪っているという自覚を、二次創作を行う全ての同人作家は自覚すべきだと思う。

「二次創作は儲かるものじゃない」とは言うが、だからといって「一次創作は儲かっている」なんてわけでもない。

公式側の人間が行っているのは〝黙認〟ではなく無法状態の放置だ。
原作コンテンツに関わる人間として〝容認〟するか、自社のコンテンツに不正な競争を強いる競合市場として〝否認〟するか、きちんとした態度を取るべきだと愚考する。

「not for you ーお前のためじゃねえよー」

高校のころ。
僕は授業中、ノートの端っこやレジュメの裏に落書きをするのが好きだった。
描いているのは昨日見たアニメに出てきたロボットとか、買ったプラモを模写して練習したロボットとか、とにかくまあロボットばかり描いてた。
こなれてくると、たまにちょっとオリジナル要素を付け足して「オリジナルMS」とか「オリジナルオーラバトラー」とか「オリジナルガイメレフ」とか描いてた。

意外と描きながらでも授業はちゃんと聞けてるもので、というか、描いて手を動かしてないと眠かった。
寝ないための事前策として描いていたようなものだ。
でも教師からの心象はやはり悪いようで、あるとき描いている絵に目を付けた教師が、その紙を取り上げて注意をした。
そしてなんと、見せしめにと教室の掲示板にその絵を貼り付けたまま授業を続行したのだ。

「意外と上手い」と一部の同級生にはほめられたが、やっぱり大半の同級生たちには笑われた。
そりゃまあ、描いたからには人に見て欲しい。それが絵という物だ。でも別に、見せたく無い人間に笑われるために描いたわけではない。

「見て欲しくて描いたんだろ。見せてみろ。笑ってやる」

そういうスタンスの人間は、教室という狭い社会の中にもいるし、この広い社会の中にも限りなく居る。
そういった輩に、僕は、こう心の中で言い返すことにしている。

「確かに見て欲しい。でもそれはお前じゃない。お前の為には描いてない」

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